研究者ストーリー
Storyあらゆる科学分野を根底から支える要。
分光学の新たな研究領域に挑戦し続ける
田原分子分光研究室 主任研究員田原 太平 Tahei Tahara


※安全を確認した上で、一時的に保護メガネを外し撮影しています
新たな計測法を複数開発し、分光学という研究分野を牽引
“物質と光の相互作用を使って分子の動きや働きを知ることで、身のまわりの現象や役に立つ反応・機能の発現メカニズムを知る”――これが田原太平の研究領域、「分光学」だ。分光学は、分子構造の解析、物質の同定と定量、化学反応の解析と動的過程の観察などにも応用され、“科学を根底から支える”と言われる。田原はこれまでの研究過程で、液体界面の化学反応をリアルタイムで観測する技術や、光受容タンパク質の構造変化をフェムト秒(1000兆分の1秒)からピコ秒(1兆分の1秒)で追跡する技術などを開発。分光学の分野で世界的に評価される田原の、研究者としての道程を辿る。
私が研究を進めている分光計測は、21世紀科学における“目”の役割を担う重要な技術です。当研究室では、理研の複数チームと共同しつつ新たな分光計測手法を開発し、それを駆使して複雑な分子系における分子科学の研究を3グループ体制で推進しています。
これまで、フェムト秒スケールの超高速分光技術を用いたアプローチにより、分子の反応ダイナミクスをリアルタイムで観測する手法を開発してきました。この技術は、分子内部の振動や電子移動を高精度で捉えることを可能にし、化学反応のメカニズム解明に大きく寄与しています。最近では、例えば、スチルベンの光異性化反応における「ファントム状態」という中間状態を超高速ラマン分光法で捉えたことで、反応の全体像が解明されるなど、化学反応の解明に顕著な成果を上げています。
また、界面非線形分光グループでは、液体の界面における分子の振る舞いを理解するため、界面選択的な非線形分光法を開発しています。特に、界面のみから発する光の振幅と位相を検出するヘテロダイン検出和周波発生(HD-SFG)分光法を駆使して、水の界面における水分子の構造やダイナミクスを精密に解析しています。
加えて、一分子レベルでの分光計測法の開発にも取り組んでおり、一分子蛍光測定に基づく新たな分光技術とデータ解析手法を開発しています。二次元蛍光寿命相関分光法(2D-FLCS)という方法を考案して、これを用いてタンパク質や核酸のマイクロ秒の構造ダイナミクスをリアルタイムで観測できるようにしました。この手法は、生体分子の複雑な動的挙動や機能発現のメカニズムの理解を深めることができるので、生命科学分野に対する応用可能性を秘めています。
歴史に残る科学者への憧れが研究者としての原点

フェムト秒オーダーの超高速分光技術を駆使し、分子の反応ダイナミクスをリアルタイムで観測する手法を開発。分子内の振動や電子の動きを高精度で捉えることを可能にするなど、様々な成果を挙げてきた。そもそも田原は、分光学という研究分野になぜ興味を持つに至ったのか。
私が研究者という職業を知ったのは、有機化学の研究者だった父の影響があると思います。父は、私が中学1年生のときに早逝しましたので、直接的な影響を受ける機会はありませんでした。ですが、研究者という仕事に対する親しみは自然と育まれていたようです。それもあって高校生ぐらいの時に、アインシュタインなど歴史に残る科学者たちに関する本を読み、「なんだかかっこいいな」と感じたことが、研究者を目指す原点になったのだと思います。
私が分子科学に興味を抱いたのは、高校3年生の時です。化学の先生が授業の中で、“アメリカの量子化学の創始者の一人であるライナス・ポーリングの理論によって、分子のかたちをうまく説明できる”と教えてくれたことが、大きな刺激になりました。それをきっかけに、大学で物理化学を専攻することにしたと、記憶しています。東京大学理科一類に入学、理学部化学科に進学後、分光学――特に反応研究の分野に惹かれました。“分子の反応が進む様子を観測する”ことに魅力を感じて、この問題に取り組むため、時間分解分光法を用いた研究をしたいと考えました。分光を通じて、反応が進行する中で分子がどのように変化していくかを追跡する研究を進め、東大大学院の博士課程を修了。当時所属した大学院の研究室では、自由になんでも好きなことが勉強できました。ちょうどコンピュータが“マイコン”と呼ばれていた時代、コンピュータにも興味を持っていた私は、秋葉原に通って部品を購入したり、自分でプログラミングしたり、分光学の実験に用いる装置をコンピュータでコントロールしたりすることに夢中になったこともあります。実験の研究室でしたが、理論の勉強も勝手に行っていました。手当たり次第にやりたいことをやっていたのですが、この頃に学んだことが、いまだに私の研究の土台になっています。当時の先生や先輩たちのおかげもあって、とても自由に、自分のやりたいことに没頭させてもらった楽しい日々でした。
博士課程終了後は1年間、東大の化学教室で助手を務め、そののち、神奈川科学技術アカデミー(KAST)の5年の研究プロジェクトに研究員として参加。同機関は神奈川県の支援を受けており、挑戦的な実験を行える環境でした。“何もない実験室”からのスタートだったので、装置を作ってはデータを取り、それについて論文を書きながら次の装置を作る――というやり方で研究をしていました。KASTでの経験は研究の幅を広げてくれましたし、また外国人の研究員も多かったので、国際的な視点を持つきっかけになったと思っています。
KASTのプロジェクトが終了する時、岡崎にある分子科学研究所(IMS)に運よく助教授として採用され、物理化学の分野で、小さいながらも自分の研究室を持たせてもらいました。IMSは、物理化学/化学物理分野の世界的な拠点として国際的に知られ、実験・理論の最先端の研究が行われていました。同時に大変フラットな文化があり、若手の研究者も自由に意見が言える雰囲気でした。若い人を育てようという意志が、研究所に根付いていたのでしょう。実際、当時の助教授の同僚は今、様々なところで指導的な研究者になっています。
“10年論争”をきっかけに、研究者として成長する

田原は1990年代後半、研究者としての意識を変える出来事に直面する。それはIMSに所属していた時期、フェムト秒分光法によるプロトン(H+)の動きに関する論文で、“ノーベル賞受賞研究者”と異なる主張を発表したことが原因だ。
私は当時、フェムト秒の光パルスを用いて分子が発する光を超高速で計測して、光化学反応の過程で分子が変化する様子を捉える研究を進めていました。化学反応が起きる時、分子の中の原子が動いて分子のかたちが変わります。光化学反応の1つにプロトン移動という反応がありますが、当時、「二重プロトン移動」と呼ばれる現象が興味を集めていました。1970年、「7-アザインドール二量体」という物質に紫外光をあてると、2つの分子をつなぐ水素結合に関係する2つのプロトンが移動することが報告されていました。つまり、2つのプロトンが移動することはわかっていたのですが、その化学反応の過程は明らかではありませんでした。1995年、これについてアメリカのアハメッド・ズウェイル博士が、“プロトンは1つずつ順番に移動する”と主張。その2年後、私たちは“2つのプロトンの移動は分けることはできず、協奏的に移動する”という論文を発表しました。
ズウェイル博士は、もともと真空中で孤立した状態にある分子が光を吸収した際の反応ダイナミクスをフェムト秒の時間スケールで追跡し、分子がどのように変化するかを明らかにする研究を行っていました。一方の私たちは、溶液中の分子を対象に研究していました。“孤立系”と“溶液系”では、研究アプローチも観測対象も、そもそも異なります。私たちは単に、溶液中の分子について得た結論を論文として発表したに過ぎませんでした。しかし、ズウェイル博士がフェムト秒分光学のパイオニアであり、のちにノーベル化学賞を受賞するほどの有名科学者だったことや、ちょうどその頃、彼らも溶液中の分子に対する研究も始めたことから、私たちの論文は世界的な論争を引き起こすきっかけになってしまいました。
その後、研究対象とした「7-アザインドール二量体」について、測定条件を注意深く設定して、プロトンの移動前後に分子が発する微弱な光の時間変化を観測し、二量体でプロトンが移動する前の状態の消滅と、2つのプロトンが移動した後の状態(互変異性体)の生成が一致する決定的な実験結果――2つのプロトンは約1兆分の1秒の間に同時協奏的に跳び移っていること――を報告した論文を、理研で発表しました。これで約10年におよぶ論争にようやく決着がつきました。
私たちの研究は、“7-アザインドール二量体で二重プロトン移動が起こる”と提唱されてから約40年の時を経て、その反応機構に関する論争に決着をつけたわけです。「画期的な基礎研究成果である」との評価をもらいましたが、論争に費やした約10年間、様々な場面で大変な思いをしたのも事実です。何せ相手はその間にノーベル賞を受賞し、一方の私は無名な日本の若手研究者でしたから。しかし振り返ってみると、“価値ある10年”だったと思います。科学の問題の場合、必ず真実があります。何度も実験と考察を重ね、考え抜いて到達した結論を証明するため、さらに実験とデータの確認を重ねて、科学的な根拠を持って議論を続けました。それを実際に行うのは決して簡単なことではありませんが、論争の過程で“正しいと思うことを貫き、主張し続けることの重要性”を学ぶことができました。
“自由な研究環境“を糧に、個々が活躍できる場づくりを進める

1兆分の1秒という極めて短い間に起きるプロトンの超高速移動メカニズムを分子レベルで解明し、世界的論争に決着をつけた田原。その後も、理研における田原分子分光研究室の研究成果は、前述のとおり目覚ましい。それは、決して田原一人の力で成し得たものではない。研究室の若い研究者たちの精力的な研究活動があって、初めて実現したものだ。田原は、理研の主任研究員として自身の経験を踏まえ、これからの研究者の育成に意欲を見せる。
理研もフラットな組織で、自由闊達に議論できる雰囲気があり、自然科学のすべての分野から優秀な研究者が集まっています。そうした環境では、自分には能力が足りないのではないかと感じることがありました。これは特に理研の主任研究員になった当時に強く感じたことですが、今でも変わりません。でも、そんなことばかり言ってなくて、とにかく何か新しいことを始めなくてはいけませんよね。思い出すのは、理研の主任研究員になって間もない頃、物理化学分野の権威ある先生からもらった言葉です。たまたまその先生が理研に来られた際、私自身の研究について説明をする機会がありました。その先生は、私の説明をじっと聞いた後で一言、「田原さんみたいな人は、“良い問題”を見つけられるといいね」とおっしゃいました。その意味するところは、“これまでの成果に満足せず、本当に新しいこと(大きな良い問題)に挑戦し続けなければならない”というのが、その時の私の解釈。逆に言うと、“私はまだ、それをやっていない”と……。実は私も、内心そう感じていたので、この言葉に背中を押されました。そうして、反応している分子の核運動の観測、界面の分子を観測する新しい分光計測法の開発、タンパク質や核酸のマイクロ秒の構造ダイナミクス検出など、今の研究につながる新しい研究を始めることができたのです。もちろん研究においては、優れた結果を出し、成果を上げることを求められるわけですが、そればかりにとらわれていると、“先の読めない挑戦”はできません。私に関して言えば、それに踏み出す勇気が持てたこと、挑戦が許される自由な研究環境にいたこと、そして一緒に挑戦してくれた共同研究者がいたこと――それが本当に幸運だったと思います。とはいえ、これは“振り返っている今”だからこそ言えること。当時は、強気になったり弱気になったりと、無我夢中に研究に取り組む日々でした。
理研の環境は、非常に自由で学際的で、様々な分野の研究者と協働できる利点がありますが、同じ分野の研究者が少ないため、私たち自身が自分の研究分野の“質の担保”を行っていく必要があります。自由で開かれた研究環境であるがゆえに、研究の“広がり”も“限界”も、自分たちに委ねられていると、感じます。新しい研究領域に挑み、結果を出し続ける努力を惜しまないことはもちろんのこと、それぞれの研究領域の“質”に自分自身で責任を持つ――大変ですが、やりがいも大きいと思っています。
私はこれまで、優れた研究者の方々との交流を通して、“研究者として視野を広げることが大事であり、その中で自分にしかできないことを突き詰めることが大切である”ということを教わってきました。そうした経験や思いを、研究室のメンバーにも伝えようとしています。私たちが行っている研究は、成果が出るまでにかかる時間が長く、忍耐力が求められます。その期間の不安や疑問を共有し、研究が認められるまでの“目立たない時間”をどう乗り越えるかということや、研究の先にある“キャリア”についてもじっくり話し合っています。
基礎研究には、“好奇心と挑戦したい気持ち。没頭できるテーマ。成果が得られるまでの過程を楽しめる楽天さ”が必要だと思います。また、このような経験は人を育てますから、基礎研究と“人を育てること”は不可分だと思っています。人の育成も、主任研究員である私の大事な仕事です。とはいえ、私の中では“指導する”というよりは、「難しい研究に付き合ってくれてありがとう」という思い、仲間意識のようなもののほうがはるかに勝っています。研究者としての矜持を持って新たな領域に挑みつつ、未来の科学を担う人材を育てる――それが私の目指してきたことです。
(文中敬称略)